公開当初は「ふーん」程度に見ていたのだがTwitterなどを眺めていると随分と評判が良いので劇場に足を運んでみたら驚愕、こいつはTV版を観ていたのなら是非とも観て欲しい映画だった!
まず、映像が美しい。魔法少女の戦いが大画面で、良い音響で観れるのはとても素晴らしい。これだけでディスクではなく劇場で観るだけの価値がある。
魔法少女への変身バンクもとてもよかった。ネタ的に捉えられてしまっているような気もするが、あの何だかグロテスクな変身バンクはやはり、魔法少女というものがキラキラしたキレイな物では決して無く、所詮は魔女へと変貌する前段階ということをTV版からの視聴者は考えてしまうのでは無かろうか。
内容としては、人間の物語、人間賛歌の物語だったように思える。
彼女たちは魔法少女である前に、一人の人間で有り、それはTV版ラストで円環の理というシステムの一部へと変貌してしまった、自分から変貌する勇気をもったまどかですら、そこに選択の余地があるならば、なるべくは人間として、
友人に囲まれて平和に楽しく過ごしたいという当たり前の欲求を持つ人間なのだ。そこを描くための、ほむらの結界内の平和な、キラキラした魔法少女として悪を倒すだけで過ごせる世界なのだ。
そして、その事実は観客だけでなくほむらにも突きつけられる。ほむらはまどかを世界の平和のためならば自分の身を喜んで差し出してしまう人間だと捉えていたが、それは違っていた。
花畑でまどかと抱き合うシーンでほむらは、まどかが円環の理へと己を変貌させたのは必要に迫られての選択だと理解してしまうのだ。まどかは、自分の身を犠牲にしなければならないときに差し出せるほどの強さはあるけれど、もしもそれ以外の方法があったら、自身も幸せになれる方法があるなら、そっちを選択したいと思うような人間としてはある意味当然の弱さも持っているということに気付いてしまうのだ。
ほむらだって、まどかが円環の理になるという選択肢が100%まどかの意思による選択だったのなら、円環の理を何が何でも死守するように動いただろう。しかし、そうではなく仕方なく選択させられた可能性に気付いたほむらは、まどかに対する愛ゆえに、自分自身が悪魔へ身を堕とそうともまどかにもう一度フラットな状態で自身か、献身かの選択肢を与えようとしたのだ。
それが、終盤のほむらが再構築した世界である。この世界で、まどかは他の要因に迫られず100%納得して、自分の意思で自身か、献身かを選ぶことができる。自身を選択すれば、この世界が続く限りほむらはまどかの親友として過ごすだろう。そして、献身を選べば、ほむらは悪魔としてまどかと敵対することも厭わないのだ。世界を改変するほど愛しい存在でも、フラットな選択肢を与え場合によっては倒される存在となることも厭わない。
ほむらのまどかに対する大いなる献身の愛である。合理的に考えれば、まどかの記憶を根こそぎ奪って永遠に世界へ閉じ込めれば良いのに、選択肢でとどめる。キュウベィも言っていたが、人間の考えは本当に不可解だ。
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